これまでのことはこれまでであります。
これからのことがいつも今、ここから始まります。
なもあみだぶ、なもあみだぶと生きていくことには変わりはありませんが、人としての状況は常に変わっていきます。
その風景を楽しみながら、悲しみながら、よろこびながらの船旅ということになりました。
その風景を「なもあみだぶ」と味わい、その船旅もやはり「なもあみだぶ」といいました。
私はその船旅、風景を如何なる時も精一杯に味わわせてもろうて、この一生としたいと思います。
少し決意めいたものでもあります。
難しい言葉で報恩、身を粉にしても喜び申すのであります。
それをよろこぶ時に、ああだこうだということもいいますが、ひとつの「なもあみだぶ」におさまります。
その味わいつくせない、なもあみだぶ、を少しでも味わっていこうとします。
如来さまの仰せを賜っていくことです。
如来さまの仰せを「なもあみだぶ」といいます。
よりどころなき私たち、人にも自分にも、磐石と思われた大地にさえ裏切れてきた私たちです。人生にひとつもよるべきものはないと泣いていました。
その私たちの、まことのよりどころになるぞよとの仰せでした。
そのまことのよりどころを「なもあみだぶ」と仰って下さっておったのでした。
泣いているのを知っとるぞよ、と涙を流されたのでした。
二度と捨てぬとのお心でありました。
二度と死んだ方がましだと言わせないぞと抱きしめて下さったのでした。
如来さまの尊さを我が口に出して讃嘆しようとします。ほめたたえようとします。それまた「なもあみだぶ」の一声におさまっていきます。
難しい学問の真似事みないなことをして如来さまを喜んで下さった親鸞さまのお心持ちを窺ってみようとしたりします。
こうであろうか、こうではなかろうか、なんとも細やかなご教示と喜び、間違っておったと冷や汗をかきます。
それはこの上ない喜びとしてあります。
時に人にもお話してみようかと試みたりします。だいたいが上手くはいきません。
しかし、人は如来さまに育てられていきます。
私の、この口から、お念仏を称えさせずにおれないというほどのお慈悲でした。
仏さまはあきらめない方であります。
お手数をかけ通してきました。しかし、少しの見返りも求めず、私を友と呼んで下さいました。「ともに行こう」と渋る私を背負ってまで下さいました。
なもあみだぶ。
私は如来さまに背負われて、心安らかに、やがて阿弥陀如来さまを親さまと呼んでいました。
そのすがたを「なもあみだぶ」といいました。
ご一緒出来る方が、もし人生で一人でもあれば有難い。大勢いれば、私もその中の一人、有難い。
なもあみだぶを申す中には、数限りのない方々がいつもともにあって下さいます。先にこの世を終えられた方も、今に泣く人も。よろこぶ人も。仏さまや、菩薩方といった方々も、親鸞さまも。なもあみだぶの中でともにあります。
やがて、敵だった人も、別れた人も、なもあみだぶ、なもあみだぶと申して出逢います。いつの日か出逢います。
再会していきます。
私たちは、その「なもあみだぶ」を聞き、口に申して、この一生を過ごします。やがて、命終わる時には、その船旅は私をやはり一つの「なもあみだぶ」に仕立てます。仏さまといいます。
往生といいます。彼の岸につくといいます。全く新しい命のあり方がついに始まるときです。
その上は未だ「なもあみだぶ」を申さずに死に、また生まれ、生きている人たち、その口元に飛び込んで、やはり「なもあみだぶ」となるそうです。
そうして、皆、同じく「なもあみだぶ」と申して、仏になっていきます。
生まれては、少しく耐えて、虚しく悲しく死んでいく。
そうではないのでありました。 なもあみだぶ、でありました。
悲しく生きて死んでいくありさまのまっただ中に、その「なもあみだぶ」が私と、出遇うて下さる。
かたじけなくも仏さまの決めて下さった私の人生でありました。
それを、多くの人とよろこびたいので、ブログ再会します。
つまりあなたと喜びたいのであります。
仏さまの、不思議の話を喜びたいのであります。
なもあみだぶ、なもあみだぶ。
南無阿弥陀仏。
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